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2022.10.24
歴史学者の村井康彦さんが茶の湯をテーマにしたトークセッションを行っていたところ、会場の客席にいた芸術家の岡本太郎さんに次のような質問を投げかけられたそうです。
「どうして茶をわざわざ堅苦しい思いをして飲まねばならないのだ」
その答えは村井さんが書かれた「千利休」という本にこのエピソードとともにありました。
”茶湯とは、日常生活に基づく営為であるがゆえに、その日常性をいったん否定し、そこから乖離しなければ成立しない”
つまり、お茶を飲むという行為は日常的な行為ですが、その中に存在する非日常性を切り出したものが茶の湯であるということです。
これは岡倉天心も柳宗悦も概ね同じ見解を示しています。
これはよく理解出来たのですが、私の読解力が足りないせいか、岡本太郎さんの問いに対する具体的な解に結びつけられませんでした。
彼の言うこの堅苦しさというのは、なぜお茶を飲むという日常生活に基づく行為に対して一定の所作、つまり『型』が必要なのかということなのだと思います。
この問いは私も尊敬する先生にお稽古をつけていただきながらも自分の中で答えを出せずにいました。
そんな時に柳宗悦さんが書かれた「工藝的なるもの」の中で能について書かれた一文に出会いました。
それはこんな文です。
『一つの舞踊が煎じつめられ、最も模様化されると「能」が生まれる。
あの最少の動作で最大の動作を示す「能」が生まれる。 そこには素晴らしい美の結晶がある。
型を守る時、不自由になるのではない。 型に入って一番自由に「能」が舞えるのである。』
型に入ることで自由になるという表現に衝撃を受けました。
なぜ自由になるのか??
この文章への解釈として工藝風向の店主である高木崇雄さん( @foucault )が「わかりやすい民藝」の中で、自身の体験を語ってくださっているのですが、これがそのまま『型』が存在する理由に言い換えられるのではないかと気付きました。
そこで勝手ながら高木さんのお言葉をベースにして私の解釈を以下に書いてみます。
茶の湯に『型』が存在する理由は2つあると考えます。
一つは「師」と繋がること。
私の尊敬する先生や他の方の優れた所作(型)や振る舞い、あるいは人間性を真似しながら積み重ねてきた稽古の時間の全ては、自分の身体の中に溶け込んで一体化しています。
この「型」には先人が積み重ねてきた時間が圧縮されていて、身体化されています。
その「型」を学ぶことは尊敬する先生方に近づく行為であり、その背後に続いている道のはるか先の千利休に繋がることです。
茶を学ぶ私は先生の弟子であり千利休の弟子でもあるわけです。
もちろん近づける喜びと恐れ多い気持ちとが綯い交ぜの状態にあります。
そしてもう一つは「私」を離れて「公」のものとなること。
「型」を通して表現された「私」はもはや「私」ではありません。
茶の湯の本来の目的は茶事を行うためにあるとのこと。
茶事とは亭主と客が参加して作る「一座建立」型の舞台であり、そこには自分と他者が一体になった世界があるのでしょう。
音楽が作曲者の元を離れて大衆のものになっていくように、亭主と客で共有された段階で「公」のものになります。
茶事は未だ未体験なのですがこの深淵ともいえる本質を追い求める茶の湯の精神性に俄然興味があります。
もっと究極的に言えば「私」と「公」の境界に囚われない状態を目指すということ。
公案でいえば狗子仏性に対する「無」という答えになると思います。
これはつまり柳さんの言う『自由』という状態ではないでしょうか。
やはり茶の湯の根底には禅宗があるのだなと改めて確認できた一連の出来事でした。
この考えが正しいかは別として「型」の存在理由について現時点の私の腑に落ちた答えが出たことは本当に良かったと思っています。
これからも日々勉強と実践を重ねていきます。
ちなみに千利休のご先祖は群馬県出身って知ってました?
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