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2022.10.09
知らない街を気ままに歩くのが好きで最寄り駅の一つ手前の駅で降りて帰り道を検索しながら帰ることがあります。
回数を重ねると道も分かってきてしまうのであえて通ったことのない道を選んでみたり。
出発地と目的地の間の往復だけではいつもつまらないと感じます。
最近は機会が減りましたが、旅に出る時はどの場所に行くかだけを決めて、宿泊先や旅程などそれ以外の予定は立てず、現地で情報を調達しながらその場で決めていくことが結構楽しいもの。
北海道のトマムに行った時、夜になぜか外を一人で歩きたくて宿泊先を抜け出して最寄り駅までの道を歩こうとしたことがあります。
宿泊地から最寄りの駅までは車で10分ほどですが、その間は森の中を走る一筋の道があるだけで、遅い時間帯ということもあり車は一台も通ることがなく人家はおろか街灯すら無い漆黒の闇の道でした。
道の両側には真っ黒な杉の輪郭が並んでいるのが空の星明かりで微かに分かる程度です。
空は息を呑むほど美しく感じました。
五感が一気に研ぎ澄まされていくのが分かりました。
遠くに水の流れる音があることに気づきました。
先へ進むほどにその音が大きくなってきていたので川に近づいているのだろうと思いました。
しばらく歩くと橋の欄干のようなものが月明かりにうっすら見えてきて、その頃には聴覚はもう水の流れる音に支配されています。それ以外の音はまったく聞こえずでこれは聴覚を失っているのと同じだと思いました。
いまここで野生の動物が近くにいても気がつかず、仮に追突されでもしたら抵抗することなくやられてしまうのだろうなとぼんやり思いました。
付近での熊の目撃情報が頭をよぎったところで心臓の高鳴りが川の音に割り込むように聞こえてきました。
そうするとそれ以上は脚が動かなくなったので橋の途中で引き返すことにしました。
恐らく歩いた時間は往復で40分程度。
宿泊先の灯りが見え、人の気配が感じられるようになってようやく気持ちが落ち着いてきましたが星空は先程よりも美しくは感じられません。
いつも旅先ではこうやって「歩く」ことをします。
何かを確かめたいのかなんなのか、よく分かりません。
原初的な生命には考えるという行為よりも感じるという行為が先にあってすべての選択をこの器官に依って判断してきたはずです。
無駄に思えるこの「寄り道」を定期的に行うのはこの器官が鈍ってきているからで、これに刺激を与えようというものなのかもしれません。
きっと多くの人がそれぞれ違う方法である種の刺激を自分に与えているのではないかと思います。
直線のレールを走る玉と、途中で大きく下るような遠回りのレールを走る玉とでは後者の方が目的地に早く着く物理の実験がありますがそんなイメージが常に頭にあります。
当然日々を打算的に行動しているわけではないけれど、生産性と合理性を求める世界には息が詰まります。
自分が予想していない遠い場所に行くにはこの「寄り道」が必要なのかもしれません。
あの時の空の光景と水の流れる音はいつでも取り出せる引き出しに入っています。
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ちなみに写真はピカソによる1917年に上演された「パラード」の衣装デザイン案。
ピカソは刺激によって遠い場所に行った代表的な人物かなと。
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