文化の構造


8,

2022.06.26

俳句というものに関心を持てずにここまで生きてきたという少しばかりの後ろめたさがあります。

というより日本の古典全般を避けてきたといえるかもしれません。

松尾芭蕉の有名な俳句くらいはもちろん知っていてきれいだなと思うもののそれ以上の感情が芽生えないというか。

そもそもどういう心境で俳句をしたためているのかさえ理解ができませんでした。

俳句を作るということも想像してみたりします。

それこそ海辺の砂粒を拾うようなイメージでとてもその先に踏み込もうという気になれない。

ということで敬遠していたのですが、ドイツの建築家であるブルーノ・タウトが日本の滞在中に書いた『日本雑記』という本の中で

宝井其角(たからいきかく)が詠んだ俳句を紹介していました。

それはこんな俳句です。

名月や 畳の上に 松の影

宝井其角は芭蕉の弟子にあたる人物で芭蕉曰く、藤原定家そのものであると評したらしい。

つまりそれほどまでに腕のある人物であるということなのか。

たしかにこの一句だけをみれば、とても貴族の作る俳句のようなロマン溢れる作品だと思います。今の勉強量で理解できているとは到底言えませんけど。

同時に写実主義者の正岡子規からすれば芭蕉一派を批判の対象として切るのも納得のできる分かりやすい要素で組まれていると感じました。

私はロマンと写実どちらも好きなのでどうということはありませんが、どんなものにも必ずカウンターとしてのカルチャーが生まれる構造があるとしみじみ思います。

カウンターがあるからこそそれまであったものの輪郭がはっきりと定義されて世の中に拡がるのでしょう。

逆にカウンターの無いものは『古典』にはなり得ずに衰退するしか無いのかもしれません。

カウンターは解体や革新とも言えると思います。

ここまで勉強してきてようやく『古典』というものの成り立ちが少し分かった気がします。

脱線しましたが宝井其角が見た景色を私も同じようにイメージができたことをとても嬉しく感じたというのが感想です。

宝井はしみじみとその光景を愉しみ、心に留めたいという思いがあったのでしょうか。

カメラのように時間を固定できるものや、SNSやブログのように誰かと共有できるツールが無い時代に

いまここで見ている・感じている心情をなんとか留める方法がないか。

その最適解が定型詩に当てはめるということだったのでしょう。

私が自分の引越しの際の条件にしたことのひとつが『月が見える家がいい』だったのでより共感しやすかったというのも心に残ったポイントだと思います。

日本家屋だともっと分かりやすいんですけど。

でも人間はそういった経験が無くとも共感できるはず。

難解だからといってすぐにフタをして仕舞う前にいま一度机に拡げてみようと思います。

早くウェブサイト完成させたい。


関連記事