想像すること


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2022.08.07

『徒然草』の一文。

花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衛(ゆくえ)知らぬも、なほ哀(あはれ)に情(なさけ)ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。

これ、初見ではまったく意味が分からず、現代意訳を見てようやく意味が分かりました。つまり、花はその盛りを、月は雲のかかることの無い様を見ることが最上の景色ではない。

雨の時にその見えない月を想ったり、家の中に篭もって春が暮れていくのを気づかないでいることもまた趣のあることだ。咲ききらぬ梢の様子、または散ってしまった庭の景色こそ見どころである。

ということでしょうか。

この随筆に対するドナルド・キーンさんの評を借りれば

(作者の吉田)兼好にとってはクライマックスは物事の初めと終わりよりもさらに興味がないのだ。それは想像の余地を与えてくれないからである。満月や、今が盛りの桜の花は、三日月や、花の蕾を想像させない。だが三日月や蕾(あるいは欠けてゆく月や散り行く花)は、満月や、盛りの花を想像させるのである。完璧性というものは、神聖侵すべからざる領域かなにかのように、侵入の余地を与えず、想像を許さない。

『日本人の美意識』ドナルド・キーン

西洋的概念の「クライマックス」と対比してこのように論じています。

この吉田兼好の感覚はとても大事だと思うのに、いつも忘れているなと反省します。でもこの感覚と折り合いをつけるのは本当に難しいなぁと思います。

それでも私のなかで一つ整理できたことを少し書き留めておきます。

想像の余地がある状態というのは完璧ではないということではなく、目に見えないものや聞こえないものを見ようとしてみたり、耳を傾けようとする姿勢が大事なのではないかということです。いま自分に足りていないのはこの想像力であると。

岡山県で自然酵母を使ってビールを醸造されている妹尾悠平さんにインタビューをさせていただいたことがあります。

彼は発酵の状態を数値に頼りすぎずに目で見て判断をするようにしています。これは自分の直感を信じるということではなくて、自然酵母の意思に寄り添うということです。数値は答え合わせに最後に使う程度。

もちろん酵母の声は聞こえませんから、彼らの状態を見て、想像をする。そして彼らのありたいように場をこしらえてあげること。

「こうしたいから、こうする。」ではなく「こうなったから、こうする。」ということを大事にしています。

水の強制冷却の話も面白い。

いままで時間短縮のために沸騰したお湯を強制的に冷却していたものを、それでは水にストレスが掛かるのではないかということで方法を見直したということを仰っていました。

最近観た映画『あん』でも同じようなエピソードがありました。

千太郎が粒あん作りを徳江から教わるシーンで、その工程がとても煩雑なことに千太郎がぼやくシーンです。

千太郎『いろいろややこしいですね。』

徳江『まぁおもてなしだから。』

千太郎『おもてなし?お客さんをですか?』

徳江『いや豆よ』

千太郎『豆?』

徳江『せっかく来てくれたんだから。

畑から。』

(中略)

徳江『いきなり煮たら失礼でしょう。

まずはこう、蜜になじんでもらわないとね。

お見合いみたいなもんよ、“あとは若いお二人でどうぞ”ってね。』

『あん』河瀨直美 原作/ドリアン助川

今日の月は十三夜月、お花でいう蕾の状態。

満月を想像しながら、明日の大事な日に備えたいと思います。


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