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2022.07.16
ミホミュージアム
『懐石の器』展のためにミホミュージアムへ。
最寄りの石山駅から路線バスに揺られて50分。
巨石の間を流れる川を眼下に眺めながら、細く曲りくねった山道を進む様子はさながらアトラクションのようです。
I.M.ペイによってデザインされた建築群は現代の桃源郷というコンセプトにふさわしく、どの場面を切り取っても神秘性を感じさせる構図になっています。
門灯は阿吽像や狛犬に見えてくるし、消火栓の表示灯ですら象徴性を帯びた意匠になっていて、つい信仰心が芽生えそうになります。
消防法に基づいて設置された機器ですら一つの象徴として受け取ってしまうほど強い世界観を構築する熱量を感じました。
展示も非常に素晴らしいものでした。
特に尾形乾山の作品は、その実物を前にしてこれほど惹かれるものなのかと感心しました感じました。
心の奥の襞に触れてくる感覚がありますです。
(杉本博司のアーキテクチャーシリーズを見た時と同様の感覚でした。)
目の前にある器は350年くらい前に作られたもの。
それまでの災害や戦禍をくぐり抜けて、いろんな人の手を渡ってきていまここにあります。
時間に耐えてきたというのはひとつの価値証書になりえるでしょう。
ところで人の作り出すものの中でも、赤子のように大切に扱われてきたものとそうはならなかったものの違いはどこにあるのか。
ひとつにこれまでも生活雑器に美しさを見出してきた人々の歴史から推察するに心の中にそれはあるのではないでしょうか。
『高価な素材を使っている』『誰が作った』ではなく『意思を感じられるもの』と『他者によって強い意思を差し挟まれたもの』を感じ取ることができるか。
これを感じとれる場合もあれば、よく見ないと気づけない場合もあると思います。この能力は知性とも言えるかもしれません。
この文脈でいうならば身体能力が優れていることもまた知性のひとつでしょう。
ひとつの指針では測れない個々の能力こそ知性ではないかと思います。
なにも一部の特別な人だけのものではない。
教育制度はそれぞれが持つ知性の特徴ある輪郭は評価しないシステムである気がします。
少なくとも自分が受けてきた教育のシステムはそうだったように感じます。
その網の目から多くの可能性が漏れてしまってはいないか。
現行のシステムは時代の要請に応じて変容しつつあると思いますが、それでも生きづらさを感じている子どもたちは多いのではないだろうか。
本当に変えるには社会の認識から見直さないといけないと思います。
このシステムは社会から漏れる人を出さないための優しさから生まれたセーフティネットなのかも知れませんが、それは誰かが決めた価値基準から漏れる人を出さないためでもあるといえます。そうすることが国益に繋がるから。
とても難しい問題だと思いますがこの拾いきれない輪郭部分も活かせるシステムにアップデートできる道を模索しないといけないのではないかと思います。
若年の多感な時期に画一的な評価システムによって周りや自身が気づく前に特徴を切り捨てられてしまうケースもあるであろうことも想像されます。を想像すると心が痛い。
取り戻せる人もいるかも知れませんが大方はどうすることも出来ないままではないだろうか。
ある価値観に従って動く姿勢は管理がしやすいものなので、推進されてきた経緯がありそうですが、そこから個人が脱却することは本当に大変でしょう。
私がいま取り組んでいることでこの問題に向き合える機会があるので、微力ながら力になれると嬉しいです。
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